
うつ病に関する悩みをたくさん見てきた。
また、実際にうつ病などの精神疾患を抱える人たちとたくさん話をした。
そんな中で気づいたことがある。
それは、
「うつ病は甘えではないが、甘えとなるフェーズもある。」
ということ。
今回は「ゆっくり休むべき段階」と「挑戦していくべき段階」について考えていきたいと思う。
「ゆっくり休むべき段階」とは

うつ病の場合、治療に専念しながら、開き直って、ひたすら休むべき段階というのは確かにある。
というのは、僕の実体験による学び。
僕は心理士としての知識から、自分がうつ病のレベルに達していると感じていながら、
「根性」で超えようとした2年間がある。
具体的な努力の内容としては、筋トレ、ランニング、瞑想、栄養学の勉強と食事、精神疾患に関する勉強と実践、充分な睡眠時間の確保、など。
とにかく仕事以外の時間の全てを体調不良を改善するための時間として使った。
そして体調不良を改善するために圧倒的に努力しているという自負があった。
それでも仕事のパフォーマンスがどんどん悪くなり、時間が守れなくなり、
最終的には、日常生活を普通に行うことができなくなっていった。
うつ病に関する悩みとして、
遅刻が続く、起きられない、食べられない、ひたすらの睡眠、
日常生活で行う当たり前のことが当たり前にできなくなる、
連絡が遅れる、やる気がでない、仕事のパフォーマンスの低下、疲労感が抜けない、などがあるが、
改善しようと意識しても治らない状態が長く続く場合は休憩が必要だ。
あくまで個人的な意見ではあるが、
特に、ひたすらの睡眠欲、というか、寝ることしかできない場合はもう心も身体も限界だ。
治療に専念して休むしかない。
これはもう「根性」だとか「ポジティブ思考」だとかそういう次元の話ではない。
心身による強制ストップ信号だ。
このような状態になってしまった場合は、(このような状態になる前に精神科へ行こう)、
精神科でちゃんと診断してもらった上で、
「自分はうつ病だ。」
と観念して、受け入れて、開き直って、ゆっくり休もう。
「挑戦していくべき段階」とは

この段階までくるにはそれなりの時間が経っていると思う。
まだまだ全開ではないだろう。
うつ病と診断される前までは、
当たり前にこなせていた日常生活の1部をたまにできたり、できなかったり。
そんな感じではないだろうか。
意欲に関しては、
やっと少しだけ未来が描けるようになったり、興味が湧いたり。
なにかをやってみよう、と思ったり、現状を脱却したいと考えたり。
とにかく、少しだけ、心が動く。
これが「挑戦する段階」だと思う。
ここまで来るまでに、きっと色々なことが変化したはずだ。
(失った、と言えるかもしれない。)
それらを1つ1つ、少しずつ、無理のない範囲で、元に戻す必要があるかもしれないし、
新しい形で再構築していかなくてはならないかもしれない。
とにかく、心が動くということは、
心が、身体が、少しだけエネルギーを取り戻した証拠、
半歩の挑戦を始めてみよう。
うつ病が「甘え」になる時

(これはとても難しい問題だから、あくまで僕の意見、ということを頭に入れておいて欲しい。
そして、うつ病を抱えている人にこの考えを押し付けるのでなく、うつ病を患っている本人が一つの判断基準としてこの項目を読んで欲しい。)
僕がうつ病を抱える人たちと話してきて、見てきて、
これは、うつ病ということを盾に甘えているのでは、と感じる時は以下の3つ。
1、ある程度活動できる状態であるのに、自分はうつ病だからできない、とやたら言う人を見た時。
2、病院に通うことを放棄している、または、処方された薬を飲んでいない。
3、治したい、改善したい、という意思を放棄している人を見た時。
1、ある程度活動できる状態であるのに、自分はうつ病だからできない、とやたら言う人を見た時。

主に仕事に関しての場合が多いのだが、会話の中でこちらがポジティブな提案をした時、
やたら「私はうつ病だからできない」と言う人がいる。
僕もうつ病になった後、
仕事だけでなく家事などの日常生活や筋トレなど含め、
様々なチャレンジをしては失敗を繰り返したので、
「体調のせいで」というのはすごくよくわかる。
しかし稀に、明らかに今現在の僕よりも他の活動はできているのに、という人がいる。
(もちろん本人にしかわからないこともあるので、本当にそうなのかもしれないが。)
僕は「ゆっくり休むべき段階」において、「自分はうつ病である」ということを受け入れることは重要であると書いた。
しかし、「挑戦していくべき段階」では、「うつ病である自分」という枠から半歩踏み出す勇気を持たなくてはならない。
思い込みの力というのは案外、人に強く作用する。
自己洗脳のように「私はうつ病だからできない」と言い続けるのでなく、
時には、自分の可能性について考えて、チャレンジすることも大切だろう。
うつ病を患っている状態は、とてもつらいが、時にとてもゆるいと感じる。
というのは、周囲にうつ病であることが受け入れられると、
その後は「体調が悪いから」で割となんでも許されてしまうからだ。
仕事も家事も悪習慣も全て「うつ病のせいで」「うつ病で体調が悪いから」といえば許されてしまうとこがある。
うつ病初期の段階においては、多くの場合、本当にそれが原因なのだが、
ある程度の活力を自分に感じられるような段階が来たら、うつ病であることを盾(逃げる理由)にはしない、という意識が当事者には必要だと僕は考える。
2、病院に通うことを放棄している、または、処方された薬を飲んでいない。

つらい、苦しい、助けて欲しい、と言葉にするわりに、
よくよく話を聞いてみると、病院に通うことを放棄していたり、処方された薬を飲んでいない人というのは意外と多くいる。
これは甘えというよりも、
自分に合った薬を飲むことでどれほど生活しやすくなるかを知らない、だとか、
心の病を薬で治すことは間違っている、と考えている人に多い印象。
いずれにせよ、とにかく、精神科に通って治療することのメリットを知らない人が多いのだろう。
変な話かもしれないが、本来は僕も、
心が苦しい・悲しい・痛い、という状態は薬で治すべきではないと考えている。
自身で考えて、人との繋がりで癒されて、体験して・達成して昇華されるべきだと考えている。
ただ重度というべきか、身体が全く動かないようなうつ病は、
もはや脳や身体を含めた病気と捉えるべきで、これはしっかり治療すべき問題。
だから「心」はそのままでいい。
けど、病院にちゃんと通うこと、薬をちゃんと飲むことはしよう。
3、治したい、改善したい、という意思を放棄している人を見た時。

これは実家暮らしで仕事をしていない人や、生活保護で暮らしている人、
障害年金をもらいながら人と暮らしている人、といった仕事をしなくてもなんとか暮らしていける状態にある人に多いと感じる。
家族や恋人の助けがあり、互いが納得していたり、専業主婦のような役割を持っているのであれば、
それは幸せの形の一つだろう。
(一人暮らしの場合、パパ活などで生計を立てている子ともそれなりに出会った。)
ただ、家族はもちろんその人がより健康であることを望んでいるし、
多くの場合、社会的に役割を持てるようになることを望んでいる。
また、精神疾患を患う本人も、結局のところ、何かしらの役割を持ちたいと思っている。
結論としては、
お金が全てではないが、金銭的自立を手にすれば、
精神的な部分を含めて、あらゆる可能性が広がり、人生そのものの幸福度が高まる気がしている。
そういった意味で、未来の自分の「笑顔」を放棄することは「甘え」と言えるのかもしれない。
うつ病は社会的に「甘え」ではなくなった

最近は、芸能人が精神的な病にかかったことを公表し休業するなど、社会的に多少オープンにしやすい雰囲気になってきたが、
僕が10代の頃は、一般的に、うつ病というのは、まだまだ病気であるというしっかりとした認識は薄く、「気の持ちよう」だとか、「精神的に弱い人間がなる」、だとかそういう考えの人が多かった。(ように思う。)
現在では、心理士の国家資格ができたり、国は障害者が働きやすい環境を作ろうと動き出していたり、精神疾患に対する認識が社会的に広がってきたように思う。
精神疾患について10代の頃から考えてきた僕としては、これは良い傾向だと考えている。
とはいえ、当事者・家族間では、その状態(うつ)が甘えか否かの線引きが難しい。
うつ病にかかった本人が自身の状態を厳しい目で判断しようとしても、
その状態が重度でない場合、この状態が「甘え」なのかどうかがわからない。
これが精神疾患の難しさであると思う。
僕自身も、少し無理をして挑戦しては失敗を繰り返した身、
「動けるようで動けない」、「動けないようで動ける」、
この中途半端な状態で、どう振る舞うことが「正解」なのか、
正直なところ、それは今の僕ではわからない。
そんな日々、経験の中で、(焦りはあるが)ただなんとなく僕が言えるのは、
1、常に上を向け、とは強くは言えないが、ポジティブな可能性は描いたり探っても良いのではないか。
2、やれる時にやれることを日々重ねていくことが大事。
今は、この2つ。